歴史の小路 No.50 ~ 野呂元丈の里 ~


先日の個別授業でのこと、優秀な生徒2人が期末テスト範囲の知識を確認していました。
そこで耳にした人物名が、野呂元丈(のろげんじょう)。
野呂元丈とは、江戸時代の本草学(薬物学)・蘭学者で、
享保の改革を行った江戸幕府8代将軍・徳川吉宗のお抱え医師(御目見医師)だった人物です。
今回は、野呂氏に関して少し書いてみましょう。


野呂氏の系図
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01054.htm

野呂元丈[のろげんじょう。野呂氏分流の「高橋」が本姓で、実父は紀州藩の地士・高橋善太郎(高橋重英)。親戚の医師・野呂三省(野呂実雄)の養子となる。]
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%91%82%E5%85%83%E4%B8%88-112601
http://www.ma.mctv.ne.jp/~genjyo/genjyo/genjyo.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%91%82%E5%85%83%E4%B8%88




https://www.google.com/maps/place/%E4%BA%94%E7%AE%87%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@34.5262683,136.2619215,79384m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x60043eeea6ef0347:0x16794da0f776b09!8m2!3d34.4616115!4d136.4635378

北畠家の本城・支城群
https://blogs.yahoo.co.jp/pascal_seki/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-89-68%2Fpascal_seki%2Ffolder%2F1865915%2F65%2F71735265%2Fimg_0%3F1487847792&i=1



【 平安時代~戦国時代の野呂氏 】

・平安時代の前期、『矢板市史』野呂氏系図によると、文徳天皇(もんとくてんのう)の第1皇子である惟喬親王(これたかしんのう)の子・兼実王(兼覧王)が臣籍降下して野呂を称するようになったという。文徳天皇の第4皇子・惟仁親王(これひとしんのう)は、即位して清和天皇(源頼朝・義経足利尊氏ら清和源氏の祖)となった。惟仁親王の母は女御・藤原明子(ふじわらのあきらけいこ、藤原良房の娘)で、藤原明子の父・藤原良房は太政大臣までのぼりつめ、皇族以外の人臣で初めて摂政となり、藤原氏(藤原北家)による摂関政治の礎を築いた人物である。一方、惟喬親王の母は更衣・紀静子(きのしずこ、紀名虎の娘)で、紀静子の父・紀名虎(きのなとら)は刑部卿(ぎょうぶきょう)である。紀名虎の兄弟・紀興道(きのおきみち)の曽孫が『土佐日記』の作者で『古今和歌集』の撰者・紀貫之である。惟喬親王は第1皇子で皇位につく立場にあったが、後ろ盾となる外戚が紀氏と弱かったために皇位につくことなく、藤原氏を後ろ盾にもつ第4皇子の惟仁親王が皇位を継承し清和天皇になったと考えられている。皇位を継承しなかった惟喬親王は、大宰帥(だざいのそつ、大宰府の長官)、弾正尹(だんじょうのかみ、弾正台の長官)、常陸大守(ひたちのたいしゅ)、上野大守(こうずけのたいしゅ)などを歴任した。
文徳天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
惟喬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
紀氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%B0%8F



・鎌倉時代初頭、野呂上野介・義高(のろこうずけのすけ・よしたか)の曽孫にあたる、下野(しもつけ)国司野呂行房(のろゆきふさ)が鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の家臣であった宇都宮朝綱(うつのみやともつな)の公田横領を朝廷に訴える。鎌倉幕府の勢力が強まるなか、これが仇(あだ)となって、北関東における野呂氏の勢力は衰えていくことになる。
野呂行房

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%91%82%E8%A1%8C%E6%88%BF
宇都宮朝綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E7%B6%B1



・鎌倉時代中頃、野呂行房の曽孫・野呂氏隆(のろうじたか)が上野国(現:群馬県)から移り住み、現在の多気郡多気町古江と朝柄の境に五箇篠山城(ごかささやまじょう)を築いたと伝わる。五箇篠山城は、南北朝時代、南朝の拠点の一つで、戦国時代は伊勢国司戦国大名の村上源氏・北畠家の支城であった。北畠家とは、言うに及ばず、南朝方の忠臣で、南朝の正統性を示す『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を著した北畠親房(きたばたけちかふさ)や、北朝を擁立し室町幕府を開いた室町幕府初代将軍・足利尊氏と戦った北畠顕家(きたばたけあきいえ)、戦国時代に大河内城(おかわちじょう)で織田信長と戦った北畠具教(きたばたけとものり)などが有名である。
北畠家

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%AE%B6


・南北朝時代、『系図纂要(けいずさんよう)』によると、北畠親房の三男で伊勢国司北畠家の初代当主・南朝の右大臣・北畠顕能(きたばたけあきよし)と野呂隆俊(のろたかとし)の娘の間に生まれた子が、2代当主・顕泰(あきやす)である。このように北畠家と姻戚関係を有する野呂一族は、北畠家臣団のなかで大きな役割を果たすことになる。伊勢国一志郡多気(現:三重県津市美杉町)に位置する北畠家当主の本拠地である霧山城(きりやまじょう)=多気御所(たげごしょ)の侍屋敷に居を構えた野呂一族に、野呂左馬助・野呂十六兵衛・野呂長門守・野呂太兵衛・野呂半七・野呂兵庫頭らがいる。
多気御所・侍屋敷
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.5.html
2代当主・北畠顕泰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E9%A1%95%E6%B3%B0



・戦国時代の1568年、五箇篠山城主であった野呂越前守(のろえちぜんのかみ)が、北畠家から離反した志摩海賊衆を討伐するために、水軍を指揮するも二見の合戦にて討死。翌1569年、五箇篠山城から約10㎞弱離れた大河内城で大河内城の戦い(織田信長VS北畠)が行われた際、北畠家老・野呂左近将監(のろさこんのしょうげん)が織田家との和睦(わぼく)に応じるように北畠家8代当主・北畠具教(きたばたけとものり)に進言していたが叶わず誅殺される。その後、両軍は和睦することになるが、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の仲立ちで和睦したという説がある。
北畠家臣団
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.3.html

http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.1.html
大河内城の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84



・1576年、織田方の謀略によって北畠一族が抹殺される三瀬の変が起こると、北畠家7代当主・北畠晴具(きたばたけはるとも)の三男で、具教(とものり)の弟・北畠具親(きたばたけともちか)が北畠家の再興を期して挙兵するも敗れ、安芸(あき)国の毛利輝元(もうりてるもと)の元へ落ち延びる。このとき、具親の挙兵に呼応して、野呂氏の分流、波多瀬実徳(はたせしげとき)・山副実有(やまふくしげあり)・六呂木実忠(ろくろぎさねただ)などが参陣。その後、明智光秀による本能寺の変(1582年)が起きると、北畠具親は五箇篠山城に入り、再度、挙兵を試みるが多勢に無勢で、意地を見せたあと伊賀へ逃れる。
三瀬の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%80%AC%E3%81%AE%E5%A4%89

北畠具親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E8%A6%AA
南伊勢の戦国武将
http://takatoshi24.blogspot.com/2013/10/blog-post.html



五箇篠山城址の碑



五箇篠山城址

国破れて山河在り、城春にして草木深し



五箇篠山城址からの風景

のどかな田園風景を眺めながら、戦国時代に思いを馳せる



野呂元丈の生誕地「波多瀬」

波多瀬は、緑に囲まれた静かなところ




戦いの世は終わり、人を救う本草学(薬物学)へ


https://www.google.com/maps/@34.4713958,136.4528806,2482m/data=!3m1!1e3

元丈の館
http://www.ma.mctv.ne.jp/~genjyo/



野呂元丈は、甘藷先生(かんしょせんせい)こと青木昆陽(あおきこんよう)とともに、
オランダ語を習得せよと江戸幕府8代将軍・徳川吉宗から命じられる。
日本の蘭学(らんがく)の始まりである。
入試頻出は、杉田玄白前野良沢の『解体新書』。

http://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000055072.pdf

蘭学者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%AD%A6%E8%80%85




・江戸時代になると、北畠家臣であった野呂氏の末裔たちは、徳川・御三家の一、紀州藩(紀伊藩・和歌山藩)のもとで土着のまま地士(じし)に取り立てられる。

北畠家臣団

http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.1.html
地士
https://kisyuhan.exblog.jp/5332365/
紀州藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9




江戸時代、紀州藩の地士となった野呂氏(波多瀬氏・高橋氏は、野呂氏の分流)たち



本籍地の戸籍謄本 ※しばらく経過したら削除する予定です

曾祖母は野呂氏の末裔



「丸に隅立て四つ目結紋」が、山本の家紋

山本右京
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.3.html
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051a1.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E7%B5%90%E7%B4%8B




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